日々のこと

昭和61年生まれの既婚子なしの女が、思ったことをだらだらと話すブログです。

複雑な気持ちの話

去年の秋、生まれて初めて"栗の渋皮煮"なるものを作った。
あまりに手間暇がかかり


(んなモン、二度と作るかぁぁぁあ!)


と、渋皮を指のはらで優しくこすりながら激高していた吾輩だったのだが。
不思議なことに、
あの果てしなく続くかのような作業を恋しく思う自分がいる。


ケバケバした渋皮をつるりとした表面にするために、
3回ものアク抜をするわけだが。
それが‥
まぁ!
まぁ!!
まぁ!!!
骨が折れる。
加えて、栗が割れないよう注意していても、
ひとつふたつはどうしても割れてしまい、
その度に心までもが折れる。
出来上がった頃には、
複雑骨折よろしく、
抜け殻同様となったことを、
今でも時々思い出す。


それなのに‥だ。
あのなかば儀式的な作業を
(今年もやりたいのぅ‥)
と思うバカな自分がいる。
普段からゴールの定められていないものに興味をもてないくらい"せっかち"な吾輩ではあるが、
手間暇かけるものに関してはそこまで嫌いではない。
しかしミステリー小説を後ろから5ページめくったところから読み始めるくらい"せっかち"ではある。
きっと始める前から終わりの目星をつけておかなければ不安なのであろう。
"せっかち"なのか。
それとも器が小さく、
ケチなのか。
まぁ、自分に対してケチなだけなら、人様に迷惑をかけることはあるまい。


ほいで"普段から果てしないことに興味をもてない吾輩"は、
イモクリナンキンの中では栗が一番好きで、
秋の味覚の中でも栗を上位にランクインさせるほどの栗好きなのである。
栗の名産地、小布施町にて、
毎年9月から10月までの間に提供される"新栗"を使用した"朱雀"という、
厳密に言えばモンブランではないのであろうが、
モンブランに似た逸品を、
(いつかは食べてみたいのぅ‥)
と思うくらいには栗好きである。
「え‥食べたことないんじゃ、栗好きって言わないのでは‥?」
なんて思われても、
吾輩は堂々と
(フン!そのレベルの栗好きと言っておるのじゃ!)
と高らかにニワカを叫ぶ。
ちなみに"甘栗むいちゃいました"を自分で買ったことはない。


そんなニワカの栗好きではあるが、
奴ら(※栗)を自身で下処理することには大変興味があるし。
大変だとわかっていても、
なんだかやりたくなってしまっている。
しかし、
去年こさえた渋皮煮しかり、
我が家で栗を食べるのは吾輩しかいない。
生まれた時から"のんべえ舌"の我が夫は、
生姜焼きやお造り、
とうふやら鍋焼きうどんが好きで、
イモクリナンキンなぞはてんで興味がない。
吾輩が好んで作るカボチャの煮物を、
3つつまめば、
まずまず食べたほうになる。
本人曰くカボチャはそこまで嫌いじゃないらしく、
芋栗も同様に別に嫌いなわけではないらしい。
単純に興味がないだけで、
興味がないから視界にも入りづらいようだ。


そんな栗には興味のない我が夫だが、
つい先日、
衝撃的なことを言っていたのである。


「俺ねー、栗ごはんは好きなのよ!」






なんですとー!?!?!?
8年以上も一緒にいて、
いまだに初めて耳にする情報があるとは。
いやはや‥驚きである。
それに甘いのか辛いのかがわからない栗ごはんなぞ、
"酒飲みが一番嫌いそうな食べ物"のように思うが‥
そう思うのは吾輩くらいなものなのであろうか‥


ちなみに吾輩はというと、
大の白米好きゆえ、
味のついたご飯は全てタブーとなる。
よって栗ごはんもタブーとなり、
秋でも栗ごはんが食べたいという気持ちにはならない。
だから栗を使った料理というので真っ先に候補に上がるのは渋皮煮となり、
それ以外で栗を使った料理はまったく思いつかない。


今日は朝から栗ごはんのレシピを見ては、
その工程の長さに驚いていた。
渋皮煮とは違うので、
多少の工程に違いはあるが。
あの儀式のような栗のアク抜きはそんなに変わらない。
そこをイメージトレーニングすると、
やはりやりたくて仕方がなくなる。


栗を調理する理由はできた。
"夫の好きな栗ごはんを作るため"
あとはこの"栗儀式"をいつにするかである。
理想的なのはメンタルに余裕がある日だ。
が、余裕があっても"複雑骨折"するであろうから、
気合いとおいしそうな栗が手にはいったら、
すぐに決行することにしよう。

 

 


※次回は8/27に上げます